浜料理がんがん

  • 先人

料理人、店長 奥田 兼生さん

店名
浜料理がんがん
出身地
大阪府
大阪から萩へ

2001年4月に開駅した「道の駅萩しーまーと」。当店は、この駅内で同時オープンし、今に至ります。
この道の駅は、臨海の生鮮市場で、新鮮な魚介類などが豊富に並ぶ「萩の台所」として、毎日、多くのお客様に親しまれています。

2015年には「全国モデル道の駅」に選ばれました。私は、道の駅立ち上げの関係者から誘いを受け、大阪から萩へ移住し、店長として迎えられました。

料理人としての日々 料亭から立ち飲み屋まで

出身は大阪です。実家は料理屋で長男、将来は料理人になるのは当たり前でした。
反発した時期もあって、大学受験をしましたが失敗。国賓などが来店する大阪の高級料亭に始まり、大阪市内のいろいろなお店で修行をしました。少しずつ、「大学に落ちてよかった」「若いうちの格好のいい時分に花板になれるのだから、技術職とはこういうものだ」と考えるようになってきて、親にもそんな話をするようになりました。
実は、実家でも仕事をしたことがあったのですが、お客さんは全員、親の知り合い。みなさんは、息子の僕に対してお世辞を言うので、このままでは自分がだめになると思いました。親にも迷惑をかけるなと。

駆け出しの頃は、バブル時代が終わる頃。板場に立ちながら、こんな時代はいつまでも続かず、安さがどん底の価格競争へと変化していくのではないかと考えていました。ならば、大阪で一番安い店で働いてみようと一念発起。高級料亭にもいた自分が立ち飲み屋へという大きなギャップもありましたが、刺激的でおもしろかったです。
そのお店は、グランド花月のある千日前だったので、朝からお酒の人ばかり。リヤカーに段ボールを乗せて、それをお金に換えて飲み代にする。しわくちゃの千円札なのですが、そこで思いました。
しわくちゃだろうが、ピン札だろうが、千円には変わりない。商売はおもしろい。

究極はメニューのないお店

滋賀県にある流行りのショットバーにも勤めたことがあります。
将来的には、カウンターで飲食を何でも出せるお店をやってみたくて、料理の修行はしたから、お酒の勉強をしようと考えたのです。飲食で知らない部分をなくしたかったから。
誰しも、外食をしようと思ったとき、本当に食べたいものになかなかありつけないと思います。そうしたときに、例えば、オムライスを食べたいと言われたらオムライスを作り、ジントニックはできる?と聞かれたら、それを出す。
お客さんごとのオーダーに応えられるというような、メニューのないお店で、経験したあらゆる飲食業を凝縮したものが理想的だと考えるようになりました。

料理の違い

そんなお店を萩でチャレンジしてみたいという意欲で萩に来たものの、すぐに打ち砕かれてしまいました。料理人にとって生命線ともいえる「味」で苦労したのです。
醤油と調味料、食材の食べ方が大阪とは大きく違い、修行してきたデータがゼロになりました。
武器を取られたかのような、すべてをなくした焦燥感は今も忘れません。
卵はあるけれど玉子焼きが焼けない。醤油はあるけれど煮つけができない。
それまで、たまり醤油を自分で作っていたのですが、地元の方ばかりのプレオープン時にそのレシピのまま料理したところ、散々たる結果でした。

けれど、負けて帰阪するのだけは嫌だったし、道の駅の経営陣は、観光客だけではなく、地元の人に認められ愛されたものでなければお店は持続しないという考え方だったので、思い切ってギアチェンジをすることにしました。
醤油は地元萩のものを使い、おばあさん世代のスタッフに頭を下げて萩の味や料理を教えてもらいました。
また、当初は安い価格で回転数を増やそうと思っていたのですが「安いものは都会でも食べられる。高いお魚を食べに萩に来たのよ」とあるお客さんに叱られたことがあり、料亭時代の僕が沸々としてきまして、ランチでは高い4千円の商品などを考案し、今もメニューとして存在しています。

苦悩の日々の3年間

ただ、苦言は簡単にはなくならず、試行錯誤の日々。車を走らせれば、無意識に大阪方面へ走ってしまっていたほどに、どん底の気分でした。
お店のオープンから3年経った頃、転機が訪れます。
僕はスタッフの一人でもある妻と結婚をしました。結婚をして守るものができたこともありますが、妻はずっと叱咤激励をし続けてくれて、また、義父の「苦言があるのは、認められているということ」という言葉にスッと気が晴れ、僕は二度目のギアチェンジで前向きに考えられるようになりました。
今や、萩にいながらにして、日本全国の方々や外国人に会えるのでここでの仕事にやりがいを感じています。

お客さんが喜ぶことを

基本的には、僕はお店のフロアに立って、忙しくなったら厨房に入ります。
スタッフに対しては、当店は、都会の飲食店に負けない味とサービスを自負しているので「田舎のお店だから…と卑下することなく、堂々と自信を持ちなさい」とよく話をしています。そして、ミスに気がついたらすぐに注意をしてフォローをし、ミスの理由からすべき行為の結論までを説明します。
そうすることで結果の先々までを見据え、危険予知に長けた人材に育つよう促すことができるからです。

また、当店にはマニュアルがありません。お客さんが喜ぶことをしてほしい、ただ、それだけです。
お客さんがダメと言われたらダメ、どんなに美味しいものでもまずいと言われたらまずいのです。それは料亭時代に学びました。
他のスタッフが作った料理は必ず、味のチェックをします。現在の調理スタッフは萩出身なので、味は教えていません。むしろ、教えてほしいと思っているぐらいです。若いスタッフや新しいスタッフから学ぶことは多いです。その心がけは常にもっています。

萩での暮らし

実は、萩に暮らすようになるまで萩が海や観光のまちということを知りませんでした。
魚は、東京や大阪では高級魚とされているヒラマサがハマチのように投げ売りされていたり、正月はブリが飛ぶように売れていたりと魚のまちと実感しました。帰阪したときに魚を食べると萩の魚の鮮度や美味しさがよくわかります。

また、料理よりも器が好きで、ここでは、萩焼の作家にも会えるし、休みの日は窯元へ行ったりもします。
若手作家を応援していて、料理とコラボレーションをしたことがありました。

また、私には子どもがおりますが、こんなきれいなまちで育てられるのは幸せだなと思います。
学校も都市部と比べて生徒数が少ないので、僕ら世代からすると手厚い個人指導をしていただいているように見えてありがたいことです。

Iターンの先輩として

移住を考えているのなら、思い立ったが吉日でどんどん行くべきだと思います。
チャレンジしてダメだったら帰ればいいし、チャレンジしないで憧れのままで終わると後悔が残るはずです。海外移住の前に国内移住ですよ。
生まれ育ったところを離れるというのは、友達とも会えなくなって寂しくはなりますが、それ以上に、新しいまちでの自分を支えてくれる、新しい出会いがあります。見知らぬ街で見知らぬ人がやさしくしてくれます。萩の人たちはやさしいですよ。


戻る

萩のお仕事を紹介しています。就職希望の方はもちろん、人材を募集したい方もご活用ください。

求職者の方

※本サイト内で企業とコンタクトをとるためには、登録が必要です。

求人企業

※求人を募集するには、登録が必要です。